ルームはファンダメンタルズ プログラムが主催する非公開イベントで、多様な背景を持つプログラム参加者(科学者とアーティスト)同士の対話を通じて自らの思考を省みつつ、ファンダメンタルに手を伸ばす(共通の正解/了解にたどりつこうとかではない)ことを目的として実施しています。今回は2024年6月8日(土)14:00-15:30に中尾拓哉さん「ファンダメンタルズ トーク vol.04 芸術と科学のあいだにあるもの──マルセル・デュシャンにみるレディメイドの発生」を題材として議論しました。参加者は科学者2名アーティスト6名の計8名で、各回異なる4名づつに分かれてのグループディスカッションを15分ほど3回行いました。一ノ瀬さんからの報告です。
第一幕「ビジュアライゼーションーダリ」
(一ノ瀬)大泉滉さんに似てるとか、創作料理でしか関心のなかったダリ氏であったが、科学への関心が創作の根底にあったことに感銘を受けた。以前の行事でもコメントさせていただいたが、アーティストも自身の作品の制作ルールに科学的な思考がいきづいているのかもしれない。
(遠藤さん)分業時代から融合時代への移行を象徴しているのだろうか。ダリの作風はそれを体現している。しかし制作ルールの作り方が、科学者のそれとは違う。
(Life is a Poem)科学の細分化はなぜ起きるのだろうか。
(一ノ瀬)細分化していけば、制作ルールの自由度は高くなる。しかしそのルールがローカルすぎると、他分野との競争では不利になる。たとえば科研費の審査枠がどんどん統合され、勢力の大きな分野の価値観が評価に持ち込まれ、いわゆる弱小分野の淘汰も懸念されている。限られたリソースを競うケースではさけられないことだ。
(遠藤)それはスポンサーがついたアーティストにも言える。
第二幕「芸術の定義」
(一ノ瀬)A(芸術)とB(日用品)の図を見て、知人に両方の作風のアーティストがおり、彼女らが二人展を開いていた。個人的にはBのほうの作品に安心感を覚えた。これは科学者ゆえなのだろうか。美大を出てデザイナーとして働く人は、後者の作風の仕事の機会が多いのだろう。Aに対してBを芸術的ではないと一般の人々は捉えるかもしれない。
(コイズミさん)デュシャンが芸術の定義を問われ、「芸術ではないもの」についてを起点に考えるのはさすがだなと思った。
(キムさん)芸術を定義してはいけないのではないか。固定してしまっては発展がない。
(コイズミさん)現代性や同時代性ということが気になっていて、さらに歴史的な射程も含めると「芸術とは何か」と今問うことはさらに困難に思える。
(キムさん)見る人(動物も)の存在、社会との混じり合いも含めて現代とは有機的なものだから、やはり定義はしてはいけない。
(一ノ瀬)古代の日用品を今芸術品として見ていたりする。古代ローマでは「住めない建築」みたいな、空間を消費しているだけのオブジェにしかならないアートは存在しえなかったのでは。現代前衛芸術ならではの問題(AとBが共存)ということか。
第三幕「デュシャンにとってのレディメイド-ローズ・セラヴィよ、なぜくしゃみをしない?」
(一ノ瀬)人類は三次元世界(三次元+時間の世界)に生きている。高次元世界で生きている宇宙人からこっちは認識できるが、人類から向こうは認識できないことを、これらの作品は我々に思い起こさせる。
(諏訪さん)まさにフェルミのパラドックスである。漫画の二次元世界のキャラは、読者の三次元世界を知ることができない。三次元と三次元がぶつかったところにやばいものが見つかるのではないかという感覚がある。それは移動しながらとか、出会いがしらに出会いがちなのではないか。
(一ノ瀬)放射性廃棄物が身近におかれた場合など、眼には見えないけど強い影響を与える「新しい三次元空間」的なものが現れた場合、見た目は変わらないが、その空間の意味が変わってしまう(やばい空間に変質してしまっている)。スピリチュアルな世界の話と言われているものは、高次元に対するセンサーの個人差を意味しているのかもしれない。視覚や聴覚に限らず、嗅覚だったりもする。
(諏訪さん)それは遺伝子レベルで決まっている話かもしれない。学者のそんな自由な話を集めてみたい。
(安里さん)上の次元から下の次元は認識できるけど、下から上は認識できない。認識はできないけど想像することはできる。想像で捉えることについての話だが、お二人の話を受けて、デュシャンは"その先"を創造(想像)しようとしてたのかと感じる。
記:一ノ瀬俊明(都市環境学)
*3セッション全て参加者が異なります。2部屋に分かれて話をしたので、一ノ瀬さんが参加したお部屋での内容紹介になります。 以下文中の名称省略の補足一覧です。
一ノ瀬俊明
遠藤和紀
Life is a Poem
コイズミアヤ
金孝妍
諏訪葵
安里槙